被災日記その3

1995.1.19
  風邪がひどくなって、ほとんど起きあがれない。子供や貴巳子さんはまだ元
気なのが助かる。食事はUさんや隣の人から差し入れしてもらう。午後から少
し気分が良くなったので、両親のところへ水やもらったご飯を持っていく。
この近所の倒壊家屋には、依然として救助隊が入っていない。電話はときど
きかかってくるが、相変わらずかけることは出来ない。次第に気分が滅入っ
てくる。夜、電気工事の人たちが徹夜で作業しているのが見える。余震は次
第に減ってきているが、まだ良く眠れない。
1995.1.20
朝、電気が復旧した。早速、電気炊飯器でご飯を炊く。冷蔵庫、テレビ、パ
ソコンも大丈夫だったのでほっとした。初めて今回の被害をテレビで見るこ
とが出来て感慨深い。しかしテレビの画像は何か一枚フィルターがかかって
いるようで、自分の体で感じたこととは、違う。根本的にテレビを見ている
と第三者になってしまうようで怖い。それにテレビの映像より、現実に近所
で見る光景の方が、はるかに被害が大きい。今までの災害では、テレビは
もっとも被害の大きいところを写していたと思う。その反対の現象を目の前
にして戸惑ってしまう。
近隣の倒壊家屋に初めて救助隊がやってきた。三重県は松坂の消防車だっ
た。老人の遺体を掘り出したのだが、親族の行方が分からず、身元確認が出
来ないと言うことで、遺体はそのままほっておかれたままだった。見てきた
人の話では、本庄町の方でもこのような遺体が、何もかけずにそこらじゅう
に放り出されているという。痛ましい話だ。
一時的に電話が通じたので、UNIくんと連絡が取れる。雑葉はんの教会も
(彼の家は天理教の教会をやっている)大破したけれど、倒壊は免れて、皆
無事と聞いて安心した。ただ、さただ氏とは会えなかったということで、心
配だ。薩長連合ネットも破壊されたようだ。
自分の風邪は一段落したが、今度は子供と貴巳子さんの調子が悪くなってき
た。Uさんが風邪薬を差し入れて下さる。子供の熱が気になる。
今日から朝と夕方の2回、自治会の援助物資の配給が向かいの公園で開始され
る。助かる。
1995.1.21
さただ氏連合ネットオーナーより電話がある。自宅は半壊、いま近所の避難
所に身を寄せているという。所有物も多くを助け出せたそうで、元気そう
だった。そのほか、連合のNさん、T氏から電話がある。みな、さただ
氏、雑葉氏のことを心配していた。
両親に自転車を借りて、東灘郵便局に行く。地震の前に不在で受け取れな
かった書留をとりに行った。区役所の前には、援助物資の段ボールがうず高
く積まれている。しかし、日本政府印の乾パンなんて今さらだれも食べたく
ないだろうな。消防署の前には色々な府県の救急車、消防車、トラックが止
まってガソリンの補給を受けている。その間、ドライバー達は歩道に思い思
いのスタイルで休んでいる。その姿は昔見た戦争映画の戦闘機乗りを思い出
させた。大本教本部、霊友会など宗教関係のトラックも目立った。

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