被災日記その2
- 1995.1.18
- 7時過ぎに日が昇ってから約1時間うとうとしていたが、いつまでもこうして
はいられない。買い置きのスナック菓子、クラッカーなどで朝食を済ませ、
10時頃皆で出かける。近所のコンビニエンスストアにはすでに長い列が出来
ていた。でも何か買えるらしい。深江の町の損傷も激しく、個人商店はほと
んど営業していない。その中で、わずかにシャッターを開けていた電気屋さ
んで電池を分けてもらった。ダイエーは店舗壁面の損傷が激しく、裏の業務
用駐車場で営業しているようだった。そこに向かって長い人の列が出来てい
た。列の長さに驚いていたら、神戸生協の方はもっと長い列が出来ていた。
では国道2号線沿いのショッピングセンター「SATY」はどうだろう。そちらの
方に向かって歩いていくと、2号線の少し南側の本庄町あたりの被害は特に激
しいことがわかった。まともに残っている建物の方が少ないぐらいだ。幾つ
かの瓦礫の山の中から、亡くなった方が掘り出されているのを見た。
倒壊しかけた薬局のシャッターの隙間から、貴巳子さんが中で商品整理をし
ていた店員と交渉して、子供のおむつをやっと手に入れる。「SATY」はまだ
新しい建物なのに、壁面のコンクリートが割れて鉄筋が見えているところが
あり、休業していた。近くにわき水があるという話を聞いて行ってみる。30
〜40人ぐらいならんで、やっと12リットルの水をくむことが出来た。この水
は沸かせば飲めるという。ただ、ならんでいる間かなり寒くて、風邪をこじ
らせてしまった。寒気がしてきたのですぐに帰る。帰り道に、初めて自衛隊
の救助隊員が活動しているのを見た。
国道2号線を、着の身着のままの、被災した人たちが東へ東へと歩いていく
のを見た。ふと、宮本百合子の「播州平野」という小説の1シーンを思い出し
た。交通は寸断され、街は瓦礫の山となってしまった。晴れた空の下、人々
はただ黙々と歩いていく。このような光景を本当に自分の目で見ることがあ
ろうとは、本を読んだときには思いもしなかった。
午後、寝ている間に大阪に住んでいる薩長連合ネットのメンバーUNIくん
が訪ねてきたらしく、ポストに手紙が入っていた。灘区の雑葉はん
ところや、長田区のさただ氏連合ネットオーナーを
訪ねて、夢野台の実家まで帰るという。皆大丈夫だろうか、元気なら私も行
きたいところだ。
ラジオで、魚崎浜町のガスタンクにひびが入って、魚崎地区、向洋町の住民
に避難勧告がでていることを知る。国道2号線を歩いていたのは、この人達
だったのだ。うちは少し離れているので大丈夫だが、またいつどのような事
情で避難しなければならなくなるか分からない。
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